広葉樹のまちづくりが、暮らしの景色に溶け込むとき

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かつて飛騨の暮らしにあった景色

かつては古川中学までの通学路の途中に、原木市場があったそうです。入学早々、新品の制服でその原木市場の側を通り抜け、ふと腰掛けた原木がマツの木。新品の制服が松ヤニでベタベタになり、帰ってすぐに祖母から怒られたといいます。

街中には、あたりまえのように製材所があり、ものすごい音で製材機が回っていたそうです。集塵ダクトは道路のほうへ伸び、道路に向かって挽き粉が吹き出していたそうです。いまでは考えられない光景ですが、それだけ街の景色に、製材所が溶け込んでいたことがわかります。

夏休みには、近所の製材所で木工用の端材をもらい、またカブトムシ用の挽き粉ももらったそうです。

職業に悩んだとき、職業訓練校で木工を学ぶという選択肢が、親子の会話で自然と出てきたそうです。木工という職業が、それほど身近で知れ渡っていたんだと想像されます。当たり前のように木のある景色が、暮らしのなかにあったことでしょう。

曾祖父の職業が宮大工だったと、急に思い出したかのように父親が口から漏らしたそうです。飛騨古川は、かつて働き手の4人に1人が大工だったそうで、おそらく職業が大工であることに特別感がない認識だったんでしょう。記憶に埋もれるほど、大工という職業が身近だったことが想像されます。

春にはタケノコ取りに山へ入り、振り返ればそこには広葉樹の森があったことが思い出されたそうです。当たり前すぎて、感じることがなかったことですが、そこにはたしかに、広葉樹の森で過ごした時間がありました。

これらの話は、意識して見ている・感じている景色ではなく、文字通り、暮らしのなかの景色の一部として、溶け込んでしまっています。なにかきっかけがないと、思い出すことすらないですが、確実に記憶のなかの暮らしの端に、森や木がありました。

「広葉樹のまちづくり」とは、何なのか

「広葉樹のまちづくりとは何なのか」。

これに対する回答として

「地域に豊富にある広葉樹資源を活かし、持続可能な経済循環を生み出すこと」

が説明としてよく使われます。それは業界的な説明としては正しいですが、一般の方からすると、その先でどんな良いことが起こるのかが想像されにくく、しばしば疑問をもたれます。地域資源を地域で活かしていくことは、ある意味では当たり前のことであり、ことさら声高に叫ぶほどのことではないのもまた事実です。林業界では、地域と林業との相関性が薄まっているがゆえに、地域に紐付いた林業を志向している上記の説明だけで納得してもらいやすかったのでは、という発見もありました。

では、広葉樹のまちづくりを通じて、なにが生まれるのでしょうか。

その問いに対する答えは、まだ自分の中に持ち合わせていないですが、かつての飛騨古川の景色のなかから、広葉樹のまちづくりが進んだ先に生まれるイメージが浮かびます。

それは、広葉樹のまちづくりが街の景色のなかに溶け込んでいき、人々の暮らしのなかの景色を、自然とかたちづくっているイメージです。広葉樹の原木が当たり前のように目の端にあり、製材所の存在も身近にある。木工の加工所は街並の一部となっており、森とも自然と繋がっている。そんなイメージです。

そのためには、当たり前のように産業が元気である必要があります。飛騨の匠に起因する、飛騨の建築・木工の文化が街に溶け込んでいたのは、それだけ産業が元気だったからだと思います。産業が衰退していくと、だんだんと景色の中からなくなっていき、最後には無くなったことにも気づかれない、そんなプロセスが浮かびます。

広葉樹をめぐる産業、もっと広い意味では森をめぐる産業が元気であること、そしてこれら産業の仕事が人々の目に触れる機会があること。これらが街の景色をかたちづくる重要な要素なのではないでしょうか。

飛騨の暮らしに溶け込んだ景色こそが、なによりも飛騨の文化を人々に伝えてくれるものであり、世代を越えて引き継いでいくべきものなのではないかと、広葉樹のまちづくりの未来について想い馳せてみました。地域資源の活用という経済的効果を越えて、街の景色との相関関係にまで考えをめぐらせれば、きっと良い未来が待っているような気がしてなりません。