だれもがみんな、ものづくりとしての素材から解放された”とっておき”の素材をもっている

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素材とはなにか

「素材」

1、もとになる材料。原料。

2、まだ製材されていない材木の類い。丸太。

3、芸術作品の物的材料。

※国語辞書より

素材とはなんでしょうか。そう思い、素材について調べてみると、「製材されていない材木の類い」と「芸術作品の物的材料」という意味が並び記されていることがわかり、そのこと自体がとても興味深いです。日本人のもつ「木」という素材への感性が伺い知れます。

そもそも、広葉樹のまちづくりをはじめとした飛騨市の取組みでは、プロダクトの素材としての広葉樹に着目し、それをどうものづくりに活かすのかという視点が中心にあります。プロダクトの素材としての広葉樹は、産業に利用されるという側面をもつことから、資源という表現もされます。それゆえに、広葉樹のまちづくりについての説明では、「豊富にある地域資源である広葉樹」という表現がされることが多いように思います。

つまり、素材というものは、いずれの意味においても、ものづくりや芸術活動におけるプロセスのまっただ中にある材料であり、これから何かに変わっていくことで、価値が出てくるものと考えることができるのではないでしょうか。

倉庫の奥から徐ろに取り出された「素材」

「素材」の価値が最大化するのはどこなのか

「素材」の価値を考えたときに、それは果たしてものづくりのための価値しかないのでしょうか。何かに変わっていくまっただ中にあるのが素材というものですが、そもそも何かに変わらないと、素材の価値は出てこないものなんでしょうか。

きっとそんなことはないと思います。僕自身、もうこれ以上なにもしなくてもいいんじゃないか、と思ってしまう木に出会うことがあります。そういう木に出会った瞬間、木はもはや「ものづくりとしての素材」から解放され、素材そのものの価値が目の前に現れます。

つまりはどのプロセスにおいて、素材の価値が最大化するのか、ということだと感じています。一般的な経済原理に則ると、素材に手を加えていくことで、付加価値が足されていくことになり、そうやって価値を生み出していくものですが、素材の中には、素材としての価値のピークが、流通の末端にないものが出てきてしまうものです。

ものづくりをしている人ほど、きっとそういうことに気づいているんではないでしょうか。

本来、手を加える必要のある素材が、それ自体で素晴らしく、ついつい手を加えるのが憚れてしまう、そんな経験があるはずです。

ぎらぎらの杢が出た謎の樹種(長らく倉庫に置いており、樹種すらわからない)
家具用材としては欠点かもしれないが、眺めているだけで引き込まれるような表情
緑青腐れ菌に侵された木片。木っ端をちゃんとした木の上に飾るという逆転現象。

素材そのものとしての価値をもつ「木」という素材

僕たちはついつい、ものづくりの材料としての「木」という側面を考えがちですが、有機的で不安定である自然素材には、本来こういう素材そのものとしての価値というものがあるものだと思います。資源としての素材には、どうしても用途や機能に応じた制約=目利きを受け、技術やセンスが求められます、一方で、こうした素材そのものの価値というのは、そうした用途や機能の制約から自由になり、素材なのに完成してしまっているという状態です。

素材に関わっていると、誰しもがその完成してしまっている素材に出会い、そしてそれを誰にも言わずに、人知れず棚の奥底に仕舞っている…そんな子供と宝物のような秘密の関係性が垣間見れるような気がしています。

ぼくたち素材に関わる人間は、素材を資源として捉え、産業に乗せていくことを考える一方で、そもそもの素材としての価値を見失わないように気をつけないといけないなと、そんなふうに感じています。